銀座が地名になったのは知っているけど、『金座』はどこにあったの?そもそも、なんで金と銀で分かれていたんだろう?
そのように、金座と銀座の歴史について、疑問に思ったことはありませんか? 華やかな銀座の街並みからは想像もつきませんが、その地名には江戸時代のダイナミックな経済の歴史が刻まれています。
この記事では、「金座」と「銀座」の役割の違いから、金・銀・銭が混在した「三貨制度」の仕組み、そして幕府の財政を揺るがした「貨幣改鋳」まで、江戸の貨幣経済のすべてをわかりやすく解説します。
日本銀行金融研究所などの公的資料や、専門家の研究に基づき、江戸の経済の裏側を深く、かつ正確に紐解いていきます。
この記事でわかること
- 「銀座」の地名の由来と、「金座」があった現在の場所
- なぜ江戸は金、大坂は銀が使われたのか?「三貨制度」の謎
- 価値が重さで決まるお金?「計数貨幣」と「秤量貨幣」の違い
- 悪名高い?「貨幣改鋳」が庶民の生活に与えた衝撃
- 職人技の結晶!「小判」の具体的な作り方


現在の銀座と日本銀行本店をつなぐ意外な歴史
銀座に「銀座」があったのは知っていましたが、「金座」が日本銀行の場所にあったというのは本当ですか?
はい、その通りです。現代の東京の中心地が、かつては日本の貨幣経済を支える重要拠点だったのです。この二つの場所の歴史的なつながりを知ると、街の見え方が少し変わって面白いですよ。
ここでは、地名から江戸時代の金座・銀座の歴史を紐解いていきましょう。
地名に残る「銀座」の記憶
多くの人が知るように、東京の一等地「銀座」の地名は、江戸時代に銀貨の鋳造を担った役所「銀座」が置かれていたことに由来します。もともと駿府(現在の静岡市)にあった銀座が、徳川家康の命により江戸に移され、現在の銀座2丁目付近に設置されました。
明治維新後、銀座役所は廃止されますが、その跡地は西洋風のレンガ街として再開発され、新聞社や舶来品店が集まるハイカラな街へと変貌を遂げます (出典: 造幣局)。
こうして、「銀座」という名前は、日本の近代化と商業の発展を象徴する地名として、現在まで受け継がれているのです。
日本銀行本店の場所にあった「金座」
一方、小判などの金貨を鋳造していた「金座」は、どこにあったのでしょうか。実は、現在の日本銀行本店が建つ場所、日本橋本石町に設置されていました (出典: 日本銀行金融研究所)。
金座は、銀座のように地名として残ることはありませんでしたが、日本の金融の中心地という役割は、奇しくも現代まで受け継がれていると言えます。「金座」があった場所が、現在は日本の中央銀行である日本銀行になっているという事実は、まさに歴史の面白い偶然ですね。
【金座・銀座の場所まとめ】
- 銀座: 現在の中央区銀座周辺に設置され、地名の由来となった。
- 金座: 現在の日本銀行本店(日本橋本石町)の場所にあった。
江戸時代の通貨発行所「金座」と「銀座」の役割
金座と銀座って、どちらもお金を作っていたんですよね? どうして別々の組織だったんですか?
良い質問ですね。金座と銀座は、扱う貨幣の種類が違うだけでなく、その組織のあり方や幕府内での位置づけも異なっていました。その違いが、江戸時代の経済を理解する上で非常に重要なんです。
ここでは、金座と銀座がそれぞれ果たした役割と、その組織的な違いについて解説します。
金貨を独占した「金座」
金座は、大判、小判、一分金といった金貨の鋳造を独占的に担った機関です。その運営は、豊臣秀吉の時代から金細工を担ってきた後藤庄三郎家が世襲制で請け負っていました (出典: historist)。
金貨は高額決済や武士の俸給などに用いられる、幕府の財政基盤そのものでした。そのため、金座は勘定奉行の厳しい監督下に置かれ、不正を防ぐための厳格な管理体制が敷かれていました。金座は単なる製造所ではなく、幕府の金融政策に深く関与する、きわめて重要な組織だったのです。
商業を支えた「銀座」
一方、銀座は、丁銀や豆板銀といった銀貨の鋳造と品位管理を担いました。こちらも町人による請負制でしたが、金座ほど厳格な幕府の直接統制下にはなく、相対的に自由な運営がなされていたようです (出典: とうけんワールド)。
銀座は、大坂を中心とする商業経済の基盤である銀貨の供給を担い、商人たちの取引を支える重要な役割を果たしました。また、銀座は幕府から預かった地金を鋳造するだけでなく、独自に地金を調達して貨幣を製造し、利益を上げる「手前吹き」も行っており、利益追求団体としての一面も持っていました。
こうして見ると、金座と銀座は、それぞれ「公式通貨」と「商業通貨」を分担する、江戸のダブルスタンダードな経済システムの象徴だったと言えますね。この二つの組織の違いが、江戸時代のユニークな経済構造を生み出していたのです。
【金座と銀座の役割まとめ】
- 金座: 幕府の財政基盤である金貨を独占的に鋳造。勘定奉行の厳しい管理下にあった。
- 銀座: 商業経済の基盤である銀貨を鋳造。金座よりは柔軟な運営がなされていた。
- 共通点: どちらも幕府の貨幣制度を支える重要機関であり、町人請負制で運営されていた。
今さら聞けない「三貨制度」とは?江戸の複雑な貨幣システム
金貨と銀貨で組織が分かれていたのはわかりましたが、そもそもなぜそんなに複雑な制度だったんですか?
それが江戸時代の経済を理解する上で最も面白いポイントの一つです。当時の日本には、金・銀・銭という3種類の貨幣が同時に、しかも異なるルールで流通する「三貨制度」という、世界的に見ても珍しいシステムが存在したのです。
ここでは、江戸幕府が採用した三貨制度の仕組みと、それが社会に与えた影響について解説します。


なぜ3種類も?金・銀・銭が併用された理由
江戸幕府は、全国の経済を統一的に支配するため、金貨、銀貨、銭貨の3つを公式な貨幣と定めました (出典: 日本銀行金融研究所)。
しかし、これらは単純に3種類のコインがあったというわけではありません。それぞれが異なる役割と価値基準を持っていたのです。
- 金貨(両・分・朱): 高額決済用。主に江戸を中心とした武家社会で流通。
- 銀貨(匁・分): 商取引の基準。主に大坂を中心とした商業社会で流通。
- 銭貨(文): 日常的な小額決済用。全国で流通。
幕府がこのような複雑な制度を導入した背景には、既存の経済システムへの配慮がありました。特に、商業の中心地であった大坂では、戦国時代以前から重さで価値を測る銀貨での取引が定着していました。幕府は、この商業慣行を無理に変えるのではなく、容認する形で全国の貨幣制度を設計したのです (出典: 同志社大学 学術リポジトリ)。
「東の金遣い、西の銀遣い」とは?
この三貨制度の結果、「江戸の金遣い、大坂の銀遣い」という言葉で知られる、東西での経済圏の分離が生まれました。武士が多く、給料が金(米)で支払われる江戸では金貨が主に使われ、米や特産品の取引が盛んな「天下の台所」大坂では銀貨が経済の中心となりました。
そのため、江戸と大坂の間で商売をするには、金と銀を交換する必要がありました。この交換レートは日々変動し、専門の「両替商」がその仲介を担い、金融業者として大きな力を持つようになります。これは、現代におけるドルと円の為替レートのようなものと考えると分かりやすいでしょう。
【三貨制度のポイント】
- 金・銀・銭の3種類の貨幣が、異なる価値基準で同時に流通した。
- 江戸は金貨中心、大坂は銀貨中心という地域差が生まれた。
- 金と銀の交換レートが日々変動し、両替商が金融の中心を担った。
「計数貨幣」と「秤量貨幣」とは?数えるお金と重さで計るお金
「金は枚数、銀は重さ」というのがまだよく分かりません。具体的にどういうことですか?
現代の私たちには少し想像しにくい感覚ですよね。これは、お金の価値を「額面」で信じるか、「素材そのもの」で信じるか、という違いなんです。詳しく解説しましょう。
ここでは、三貨制度を理解する上で欠かせない、「計数貨幣」と「秤量貨幣」という二つの概念について、その違いを明確にします。
枚数で価値が決まる「計数貨幣」(金・銭)
計数貨幣(けいすうかへい)とは、1枚あたりの価値(額面)が法律で定められており、取引の際に枚数を数えて支払う貨幣のことです。江戸時代の金貨(小判、一分金など)や銭貨(寛永通宝など)がこれにあたります (出典: 藍澤證券)。
例えば、「1両」の価値を持つ小判は、その1枚で「1両」として通用します。これは、現代の私たちが1万円札を1万円として使うのと同じ感覚です。貨幣に刻印された額面への「信用」が価値の基礎となっています。
重さで価値が決まる「秤量貨幣」(銀)
一方、秤量貨幣(しょうりょうかへい)とは、貨幣そのものの重さによって価値が決まる貨幣です。江戸時代の銀貨(丁銀、豆板銀など)がこれにあたります (出典: 藍澤證券)。
丁銀や豆板銀には「〇〇両」といった額面は刻印されておらず、商人は取引のたびに天秤で銀の重さを量り、「銀〇〇匁(もんめ)」という形で支払いを行いました。これは、お金の額面よりも、素材である銀そのものの価値を信用していた大坂の商人たちの合理的な考え方を反映しています。
【計数貨幣と秤量貨幣の違い】
| 種類 | 計数貨幣 | 秤量貨幣 |
|---|---|---|
| 代表例 | 金貨(小判)、銭貨(寛永通宝) | 銀貨(丁銀、豆板銀) |
| 価値の基準 | 枚数・額面 | 重さ・品位 |
| 使い方 | 1枚、2枚と数えて支払う | 天秤で重さを量って支払う |
| 主に使われた場所 | 江戸(武家社会) | 大坂(商業社会) |
このように、江戸時代には価値の基準が全く異なる二種類のお金が共存していました。現代を生きる私たちからすると非常に複雑ですが、この複雑さこそが、江戸時代の多様な経済活動を支えていたと言えるのかもしれません。
小判はどうやって作られた?職人技が光る鋳造技術
時代劇で見る小判って、どうやって作られていたんですか?手作業で作っていたんですよね?
その通りです。小判一枚一枚に、江戸時代の職人たちの驚くべき技術と知恵が詰まっています。その製造工程は、国立公文書館に残る絵巻物などからも知ることができるんですよ。
ここでは、金座で行われていた小判(金貨)の鋳造技術について、その具体的な工程を見ていきましょう。
金座の職人たちが受け継いだ伝統技術
江戸時代の小判作りは、高度な専門技術を持つ職人集団によって行われていました。その工程は、国立公文書館が所蔵する「金吹方之図(かねふきかたのず)」という絵巻に詳しく描かれています (出典: 国立公文書館)。
主な工程は以下の通りです。
【小判の製造工程】
- 地金(じがね)の準備: 佐渡金山などから運ばれた金塊を溶解し、銀などを加えて定められた品位(純度)の合金を作ります。
- 鋳造(ちゅうぞう): 溶かした金を棹(さお)のような棒状の型に流し込み、「棹金(さおがね)」を作ります。
- 圧延と打ち抜き: 棹金を槌で叩いて薄く延ばし(圧延)、小判の形に打ち抜きます。
- 打刻と意匠入れ: 小判の表面に、茣蓙目(ござめ)と呼ばれる美しい槌目(つちめ)模様を打ち込み、さらに額面を示す「壱両」や後藤家の花押などを刻印します。
- 色揚げ: 完成した小判を薬品で処理し、表面の銀や銅を溶かして金の純度を高め、美しい黄金色に仕上げます。
この一連の工程は、すべて職人の手作業と長年の経験に支えられていました。
不正を防ぐための厳格な管理体制
金貨鋳造は幕府の財政の根幹をなすため、その管理は非常に厳格でした。金座の内部では、各工程ごとに責任者が置かれ、複数人による相互監視の体制が敷かれていたと言われています。
例えば、地金の受け渡しから小判の完成まで、重量を何度も測定し、少しの減損も許されない徹底した管理が行われていました。これは、材料の盗難や、品位をごまかすといった不正行為を未然に防ぐための仕組みでした (出典: 日本銀行金融研究所)。
【小判鋳造のポイント】
- 製造工程は「金吹方之図」などの絵巻で知ることができる。
- 溶解から打刻、色揚げまで、職人の高度な手作業によって作られた。
- 材料の盗難や不正を防ぐため、厳格な管理体制が敷かれていた。
「銀座」が繁華街へと発展した歴史的経緯
今の銀座はきらびやかなイメージですが、昔の「銀座」もそんな感じだったんですか?
いえ、江戸時代の「銀座」は役所と職人の街でした。しかし、明治時代に大きな転機が訪れ、現在の姿へと変貌を遂げることになります。
ここでは、銀貨鋳造所であった銀座が、いかにして日本を代表する商業地へと発展していったのか、その歴史的経緯を解説します。
明治維新とレンガ街計画
江戸幕府が終わり明治時代になると、貨幣制度も新しく「円」が導入され、金座や銀座はその役割を終えて廃止されます。金座の跡地には日本銀行が建てられましたが、銀座の跡地は、政府によって全く新しい街づくり計画の舞台となりました。
それが、「銀座煉瓦街(ぎんざれんががい)計画」です。1872年(明治5年)の大火で焼失した銀座一帯を、西洋のような耐火性の高いレンガ造りの街並みに生まれ変わらせようという、壮大な都市計画でした。
道幅は広げられ、歩道も整備され、ガス灯が灯る近代的な景観が作り出されました。
新しい文化の発信地へ
この新しい街には、新聞社や雑誌社、舶来品を扱うハイカラな店、カフェなどが次々と集まり、銀座は文明開化の象徴であり、新しい文化の発信地となっていきました。人々は、最新の流行を求めて銀座を散策する「銀ブラ」を楽しむようになります。
もともと「銀貨を作る場所」であった銀座は、明治維新を機に、「新しい文化や消費が集まる場所」へとその役割を大きく変え、現在の高級ブランド街へとつながる礎を築いたのです (出典: manabow)。
【銀座の発展史のポイント】
- 明治維新で銀座役所が廃止され、跡地が「銀座煉瓦街」として再開発された。
- レンガ造りの近代的な街並みに、新聞社や舶来品店が集まり、文明開化の象徴となった。
- 「銀貨を作る場所」から、「新しい文化と消費が集まる場所」へと役割が変化した。
貨幣改鋳が庶民生活に与えた影響と経済の混乱
貨幣改鋳って、幕府は儲かったかもしれないけど、庶民の生活は大変だったんじゃないですか?
その通りです。特に有名な「元禄改鋳」は、幕府の財政を救う一方で、深刻なインフレーションを引き起こし、江戸の庶民や武士の生活を直撃しました。
ここでは、貨幣改鋳が江戸の経済と人々の生活に与えた衝撃について解説します。
幕府の財政難が生んだ「元禄改鋳」
17世紀末、5代将軍・徳川綱吉の時代、幕府は寺社造営や派手な儀式などで財政が著しく悪化していました。この危機を乗り切るため、勘定奉行の荻原重秀が提案したのが貨幣改鋳でした。
その狙いは、小判に含まれる金の量を減らし、同じ金地金からより多くの小判を作り出すことで、その差益(出目)を幕府の収入とすることでした。具体的には、慶長小判の金含有率が約85%だったのに対し、新しく作られた元禄小判では約57%まで引き下げられました (出典: 読売新聞オンライン)。
これにより幕府は一時的に莫大な利益を得ましたが、市場に流通するお金の実質的な価値は大きく下がってしまったのです。
物価高騰に苦しんだ江戸の庶民
貨幣の価値が下がれば、モノの値段は上がります。元禄改鋳の後、江戸では急激なインフレーションが発生し、特に米などの生活必需品の価格が高騰しました。
現代の感覚で言えば、「今まで1万円で買えたものが、急に1万5千円出さないと買えなくなった」ようなものです。給料の額面は変わらないのに、モノの値段だけが上がっていくのですから、その衝撃は計り知れません。
固定給で生活する武士や、日々の稼ぎで暮らす庶民にとって、この物価高騰は生活を直撃しました。貨幣改鋳は幕府の財政を一時的に救いましたが、その代償として経済の混乱と社会の不安を招いたのです (出典: antylink.jp)。
ただし、近年の研究では、この改鋳がデフレ状態にあった経済を刺激する「金融緩和」の側面も持っていたとする再評価もなされています (出典: 日本経済新聞)。
貨幣の価値をコントロールしようとする政策は、現代の中央銀行も行っていますが、その難しさは江戸時代も同じだったのですね。荻原重秀の評価が時代によって変わるのも、経済という複雑なものを扱うことの難しさを示しているようで、非常に興味深く感じます。
【貨幣改鋳の影響まとめ】
- 目的: 幕府の財政難を解消するための、改鋳差益の獲得。
- 手法: 元禄改鋳では、小判の金含有率を約3分の2に引き下げた。
- 影響: 急激なインフレーションを引き起こし、物価が高騰。武士や庶民の生活を圧迫した。
金座・銀座に関するよくある質問(FAQ)
金座・銀座の歴史に関して多くの人が抱く疑問に、Q&A形式でまとめてお答えします。
- Q1: 金座と銀座は、今でいう日本銀行みたいなものですか?
-
A1: 半分正解です。貨幣を発行するという点では似ていますが、金座・銀座は町人が運営を請け負い、利益も上げていました。現在の造幣局と日本銀行の一部の機能を合わせたような組織と考えるとイメージしやすいでしょう。
- Q2: 江戸時代は、金と銀をどうやって交換したのですか?
-
A2: 江戸や大坂にあった「両替商」が、日々変動する相場に基づいて金と銀を交換していました。これは現代でいう外貨両替のようなものです。
- Q3: なぜ「金座」の地名は残らなかったのですか?
-
A3: 金座があった場所は「日本橋本石町」という既存の地名が強く、また明治以降に日本銀行が建てられたため、「金座」という地名が定着しなかったと考えられています。
- Q4: 小判は全部同じ価値だったのですか?
-
A4: 額面(例:一両)は同じでも、貨幣改鋳によって金の含有率が異なる複数の種類の小判が流通していました。そのため、実質的な価値は時代によって異なり、経済混乱の原因にもなりました。
- Q5: 「東の金遣い、西の銀遣い」はいつまで続いたのですか?
-
A5: 江戸時代を通じて続きましたが、幕末の開国や明治維新後の「円」の導入によって、全国の貨幣制度が統一され、この習慣はなくなりました。
- Q6: 貨幣改鋳は、単なる悪政だったのでしょうか?
-
A6: 物価高騰を招いたため悪政と見られがちですが、近年の研究では、デフレ経済を活性化させるための金融緩和政策だったという再評価もされています。
まとめ:地名に残る江戸の「金」と「銀」の記憶


最後に、この記事で解説した金座・銀座の歴史と、江戸の貨幣制度の要点を、もう一度整理しておきましょう。
本記事では、地名の由来から江戸時代の複雑な経済システムまで、金座と銀座の歴史を深掘りしました。
「金座・銀座の歴史」の重要ポイント総復習
- 地名の由来と場所
- 現在の「銀座」は、銀貨を鋳造した「銀座」の跡地。
- 「金座」は、現在の日本銀行本店の場所にあった。
- 三貨制度という複雑なシステム
- 江戸幕府は、金(計数貨幣)、銀(秤量貨幣)、銭(計数貨幣)が混在する貨幣制度を採用。
- これにより「東の金遣い、西の銀遣い」という地域ごとの経済圏が生まれた。
- 貨幣改鋳の衝撃
- 幕府は財政再建のため、元禄改鋳で小判の金の品位を下げたが、これが激しいインフレを引き起こし庶民の生活を苦しめた。
- 歴史的意義
- 金座・銀座の歴史は、江戸幕府の巧みで、時には強引な経済支配と、それに翻弄された人々の生活を物語っている。




コメント